ちきゅうじんコンサートinアジア
2005年1月から2月にかけて韓国、タイ、ブルネイの三カ国・五カ所で「ちきゅうじん」主催のコンサートが開催された。1月28日は韓国の江原道春川市の聖潔教会で故李秀賢さんの四周忌追悼コンサート、29日は京畿道安山市にあるサハリンからの帰還者が住む「故郷の家」で慰問コンサートが行われた。続いて2月23日にはスマトラ沖地震の被災地であるタイのナムケン村での慰問コンサート、24日にタイのプーケットの海岸で夕日を見ながらの「サンセットコンサート」が行われた。27日にはブルネイの国営放送に、「ちきゅじんコンサート」でシンセサイザーの演奏をするキム・シンさんと、キムさんのプロデューサーの山本京子さんが生出演した。同日午後、ブルネイ王国の国王の妹、プリンセス・ラキア邸で身体障害者施設の子供達のためのコンサートが開催され、キム・シンさんの演奏に癒しの一時を過ごした。
ちきゅうじんコンサートは、「地球に生きる全ての人が国籍や宗教を超えて、お互いを思う心を育む」を目的に企画されたコンサート。会の発足のきっかけは、四年前にJR新大久保駅で線路に落ちた人を助けようとして亡くなった韓国人留学牛李秀賢さんと日本人カメラマンの事故だった。
2002年から「李秀賢さんの生き方を考える会」を関西大学文学部の上田譽志美教授が発足。2005年から「李さんらのやさしさと勇気を受け継ぎ、温かい気持ちを持つ地球人になろう」、ということで「ちきゅうじん」と名称を変更した。
春川市で行われた故李秀賢さんの追悼コンサートで講演を行った上田教授は、「李秀賢さんの四周忌を彼の故郷である韓国で、しかも、冬のソナタのロケ地であった春川市で、このように温かく迎えていただきましたことを心から感謝いたします。事故の現場にいた人の証言によると、李さんは、反対側で電車を待っていましたが、転落に気付いて振り返って走り、線路に飛び降りたそうです。私達は彼の勇気ある行動、優しさを忘れることなく語り継いでいきたいと思います」と語った。
春川市の金鎭國副市長と、春川市出身でコンサートの現地手配にあたった医学博士、石川自然氏が挨拶。当日、会場に届いた李秀賢さんの両親からのメッセージを同教会の柳ドンソン担任牧師が読み上げた後、シンセサイザー奏者のキム・シン氏が故郷韓国で初めての演奏会を行った。演奏中に1月26日の命日に日本で行われた四周忌の模様と、子供の頃からの写真がスクリーンに映し出され、他人の命を尊び、優しさと勇気を示して逝った李秀賢さんを偲んだ。
サハリン帰還者を慰問するコンサートでは、上田教授は、歴史の中で起きた悲劇について語り、その犠牲となったサハリン帰還者へ慰労の言葉を伝えた。キムさんの演奏に合わせて歌を口ずさむ姿、演奏終了後に感動して立ち上がりアンコールを求める姿も見られ、ちきゅうじん一行は、また次回の「故郷の家」訪問を約束して安山市を後にした。ロシア語、韓国語、日本語の三ヶ国語を流暢に話す「故郷の家」の人達の姿は、長い問、苛酷な肉体労働に従事された苦労もさることながら、知的であるにもかかわらず肉体労働の道しか選択出来ない人生を送らなければならなかった悲劇をも物語っていた。
ちきゅうじんコンサートを韓国で終えた帰りの飛行機の中で、「スマトラ沖地震の被災者が精神的なショックから立ち直れず、心のケアーを必要としている」という新聞記事に触れ、慰問コンサートを行うことが急拠、決定され、2月23日にタイのナムケン村でコンサートが行われた。(ナムケン村の映像は)NHKBSドキュメンタリーで放映された。
ナムケン村は漁村であったが、津波で船が壊れて漁を行うことが出来ず、生活が困難な状況にある。衣服などが世界中から送られてきているが、現地の人々にとって今必要なのは船なのだ。また、家族の誰かが亡くなっている家庭がほとんどで、中には十人家族のうち九人が亡くなってしまった家もあり、村の全ての人々が家族を失った傷を心に受けてしまっている。
キムさんの演奏は、被災者の仮設住宅の中にある集会所で行われた。演奏を聴いた村人は終了後、キムさんに握手を求めて集まり、中には貴重なドリンクを差し入れする者もいた。ちなみに2月23日は、仏教国タイにおいて、お釈迦様が悟りを啓いた大切な日でもあった。
一方、観光地として世界的に有名なプーケットでは、二ヶ月経っても日本人観光客が戻ってこないことが最大の悩みとなっている。通常では旅行客の三分の一を占めるという日本人観光客がプーケットの経済を支えている、といっても過言ではない。日本で繰り返し放映された津波の映像は、すでに観光地としての原型を完全に取り戻しているプーケツトにとっては過去の映像であり、「病気が蔓延している」「施設が復旧していない」というイメージを継続させる逆効果、「風評災害」をもたらし、プーケットの復興を遅らせる、という皮肉な結果となっている。
西欧からの白人観光客は、すでに戻ってきていて、空港と海岸を埋めているのは全て白人。空港にいた日本人観光客は、ちきゅうじんコンサートスタッフのみであった。「日本人は津波の怖さを知っているので、なかなか戻ってきてくれません」。ちきゅうじんコンサートのコーディネートを引き受けて短期間にもかかわらず成功させた、タイ旅行専門会社ハイライトツアーズの山本代表は肩を落としている。2月24日にプーケツトの海岸で行われたちきゅうじんコンサートには、プーケットの観光局総裁・アンチャリー氏も参加し、一行を歓迎した。夕日が沈むまでのひと時をシンセサイザーの音に耳を傾けながら、癒しの空間を体験する人達がたくさんいた中、最も感動していたのは「素晴らしい夕日を真向かいに見ながら演奏できたのは初めて。その美しさに感動しました」と語るキム・シンさん自身だったかもしれない。
2月27日にブルネイ王国で行われた、ちきゅうじんコンサートをコーディネートしたトラベル・トレード・エージェンシーの橋本紀子代表がブルネイに渡ったのはブルネイ王国独立前というから、日本とブルネイの橋渡しとして重要な役割を果たしてきた人物である。橋渡しといえば、現国王の叔父にあたる初代首相のペンギラン・ヨソフ氏は、広島大学留学中に被爆された経験を持ち、また、ブルネイ大使として日本に滞在したこともあることから、日本には特別な感慨を持っておられるようだ。
昨年のブルネイ王国皇太子の結婚式に日本から皇太子殿下がお祝いに行かれたことで、ワイドショーにも登場し、注目を集めるようになったブルネイ王国はイスラム教の国である。
ちきゅうじんコンサートスタッフが実感したのは、昨今、自爆テロなどで危険なイメージを抱かせるイスラム教のイメージを、ブルネイ王国は180度変えてしまう国である、ということ。犯罪が年に数件しか起きない。税金、医療費は無料。石油産油国なので石油の値段が安く、変わることがない。イスラム教徒はお酒を飲まないので、国民の関心とお金の使いどころは、主に車と携帯電話に向けられ、個人で二、三台の外車を持っていることは珍しいことではないそうだ。ブルネイ人と結婚してブルネイ人となった日本女性は「ここは竜宮城です」と、一言でこの国を表現した。なぜか夕方五時から開園するジェラドン・パークは元国王の第二夫人がポケットマネーで造った遊園地で、あまりお客さんが来なくても、きちんと営業を続けている。ちきゅうじん一行は、真っ暗な中、ジェットコースターに乗って旅を締めくくり、不思議の国ブルネイ王国を後にした。